院長 歯科医師
藤井芳朗
「予防に勝る治療なし」とむし歯や歯周病の予防に積極的に取り組み、「人にやさしい歯科医療」を実践してきました。
昭和51年の開院以来、治療終了後のメインテナンスを、歯磨き練習などを行いながら、ずっと続けております。
私は小学生の時、病気で父親を亡くしました。その頃からできれば医学の道に進もうと思っていました。高校に進み進路決定の時に、自分には外科系の仕事が合っていると思っていた事と、生まれ育った「植田」にはまだ歯科医院は無かった事により、歯科医学の道に進む事を決めました。
患者さんの喜びを感じられる事です。これは、人と接する仕事に共通する仕事の魅力だと思います。
1本の歯の治療のみならず、かみ合わせを含めた口腔全体に対するアプローチです。
明るく生きていくためには、全身の健康(口は消化器の入り口)と心の健康は、大切なものです。
私は、まだこの辺りが愛知郡天白村植田だった頃、生まれました。地元の大学に進学後は、大学に残り指導者になる道もありましたが、愛着のある地元植田でより多くの方のお役に立ちたいという思いが強く、この地で昭和51年に開業をしました。開業直後の昭和51年頃、この辺りの住民はわずか数百世帯ほどでした。その後、地下鉄の発達と共にたくさんのマンションが建ち、他地域からの人口流入が起こります。そんな中、地元への感謝と貢献をしたいという思いから、旧住民と新住民との懸け橋になりたいと考え、PTA会長、子供会連合会長、地域青少年育成協議会、警察署への協力等を行ってきました。
開業当初は、子供たちの虫歯は多く、母親への口腔衛生の概念・歯の重要性等の教育をしていました。新聞、マスコミによりフッ素投入水道水が世に伝わり、フッ素への関心が高まり、歯科医院でのフッ素塗布の要望が多くなりました。しかしフッ素塗布をすれば虫歯にならないとお考えの母親たちが多く、安易にフッ素塗布をしてはならないとの思いが強くなりました。地域の口腔衛生状態をあげたいと思いつつも、口腔衛生指導の難しさに直面した時期でした。
開業当時は、1週間に2日間を子供の治療にあてましたが、1日約60名の来院があり、とても大変でした。無我夢中で歯科治療に専念していましたが、子供の虫歯の再発が多く、これではいけないとの想いが強くなりました。そこで、次第に、まだ世の開業医には定着していなかったメインテナンスに目を向けていきました。
その頃、保険診療の電算化が行われるようになり、コンピューター製作会社から電算化コンピューターを作りたいと相談をいただきました。そして製作会社と共に作ったのが、歯科界の1号機となるコンピューターでした。そこにリコールシステムを導入してほしいと頼んで、リコールの体制ができていった。現在も当院では当時と同じシステムを用いて、みなさんのメインテナンススケジュールの管理を行っています。「かかりつけ歯科医」という呼び名が普及して久しいですが、このシステムは「かかりつけ歯科医」の始まりとなりました。
大学卒業後に、部分床義歯学の講座に入局させていただきました。講座では、治療、教育、研究、技工と大変忙しく病院生活を送り、帰宅は翌日になることもありました。
当時、同じ医局の先輩が開業することになり、副院長として手伝ってくれないかとお誘いを受け、名古屋市中区栄で勤務することになりました。そこは名古屋市内で初めての歯科医師会へ未入会の医院でした。
非歯科医師会員ということで、後ろ指を指されないよう診療内容、接遇により注意をし、自身が開業するかのように従業員教育等をしてきました。そこでの勤務医時代にやってきたことが、今の診療室への想いの一歩になっています。
その後退職し、昭和51年5月6日に、植田での初めての歯科医院として開業しました。開業した当時、植田地区は土地区画整理の真っ最中で、道路整備も不完全でした。その後、昭和53年に地下鉄鶴舞線が開通し、人口が増加してきました。
徐々に道路整備が整い交通量が増加するにつれ、当時のクリニック前の道路では渋滞が目立つようになり、患者さんの通院も難しくなってきました。これ以上患者さんに迷惑をかけられないと考え、昭和64年に現在の場所に診療室を建て替えることになりました。
今後も、丁寧な治療と予防管理を徹底し、地域の皆様のお役に立てる歯科医院を目指してまいります。